『子どもの頃からの生きづらさと、夫への恨みが解消! 新しい人生の幕開けへ』  芦屋慶子さん(仮名・57才)

皆さん、こんにちは。心の学校スタッフ奥村です。本日は芦屋慶子さんの体験談をご紹介します。

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幼少期から、両親に心を開けず生きづらさを感じていました。そんな中で気を使わず過ごせる男性と出会い結婚しましましたが、一人の時間が多くコミュニケーションが取れなくなっていきました。

そんな時YSメソッドに出会い「探しているものがあった!」と思い、すぐに受講したのです。受講してどのような変化が起きたのか、是非ご覧ください。

【生きていてはいけない人間】

幼少期、私の記憶のなかには、父と母の姿がありませんでした。不思議だなと思っていたのですが、三人姉妹の長女だった私は、両親に対してすごく反発して、よそよそしい感じがずっとありました。

20才ぐらいの時、両親に心を開けなくなったきっかけが、4~5才の頃の出来事にあることに気がつきました。

両親から離れ、おじいさんの家に遊びに行ったのですが、それが1ヵ月間にもなってしまったのです。

私は寂しかったのでしょう、自分で行くとは言ったものの、そんなに長くなるつもりではなかったので、捨てられたような気分になったのです。

あとで聞いたところによると、1ヵ月後に戻ってきた時、私は両親に対して他人行儀になっていたのだそうです。

親というのは信頼できない、安心できない存在だという思いが、幼少期に作られたのだと思います。

それが後々、すごく不安な気持ちであったり、人とうまくコミュニケーションが取れないという形で現れてきました。

小学校1年ぐらいの時、私は「絶対にお母さんにだけはなるまい」と決めました。性格からくる生きづらさを子どもながらに感じていたので、こんな思いを自分の子どもにさせたくない、遺伝子を残して苦しませたくないと思ったのです。

高校を卒業後、仙台の福祉大に入学した私は、一人暮らしを始めました。私にとって、この時代が最もさ迷っていた時代です。

鬱々、陰々とした、重苦しい日々を送っていました。人に対する恐怖感もひどかったのですが、表向きは見せないようにしていました。

ジキルとハイドのように、二面性で生きることに疲れてしまって、分裂したみたいになっていたのです。

大学には自分の居場所がなくて、行きたくないし、行けなくなりました。私のなかには、いつも「自分は生きていてはいけない人間だ」という感覚がありました。

性格的にも弱いし、きちんと物事ができないし、中途半端だしと、悪いところばかりがすごく大きく感じました。

生きることを許されるとすれば、人様のお世話をして生きることだ……。

そんな気持ちで福祉大を選んだのですが、気持ちがしっかりしていないのに、人様のお世話なんておこがましいとも思いました。

 【自分の本心が分かった】

自己嫌悪や自分の無価値観に打ちのめされ、どう生きていいか分からないし、死ぬにも死ねないし、人に言ったら嫌われるかもしれないと思うと、誰にも相談することができませんでした。

その当時は、うつという言葉は一般的ではありませんでしたから、ノイローゼとか神経症かなと思って、そういう本を読み漁りました。

精神病の患者さんたちが集まる自助グループがあると知った私は、わざわざ仙台から東京まで訪ねていったこともあります。

そういったところに行って、自分にうつや神経症の傾向、症状があることは間違いないと確かめられました。

私が行った自助グループでは、「完璧を求めない」という考え方が大切にされていました。例えば、神経症にかかるような人間の大きな特徴は、完璧主義だというのです。

私も、完璧主義な性質が強くありました。それは、100かゼロの世界です。「100点取れないなら、試験を受けるな」という感じなのです。

自分の傾向は分かりましたが、心の状態はつらいままでした。大学に行けないので、学費を出してくれている親にも申し訳なく思っていました。

もう人生やめたいな、もう死のうと思った私は、押し入れのなかで、声が漏れないように布団に顔を押しつけて、「ウワーッ!」と泣き叫びました。

その時、とんでもないものが私の体のなかを通り抜けていったのです。

お腹の底の底から、真っ赤な火の玉のようなものが「殺されてたまるかー!」という声とともにグワーッと上がってきて、頭のてっぺんから突き抜けていったのです。

あまりの驚きとショックで、私はしばらく呆然としていて、涙も止まっていました。

「今の、何だったんだろう」そう思った時に気づいたのは、それが私の本心なんだということでした。

私は自分で死ぬような人間じゃない、死にたいなんて口では言うけれど、腹の底では「殺されたって死ぬもんか」と思っているような、本当はふてぶてしい人間だということが分かったのです。

だから、死のうと思うこともやめようと思ったのです。この経験でちょっとは気持ちが楽になりましたが、やはり大学へは通い続けられず、中退することになりました。

その後、青森県の介護施設に就職したのですが、ここで私は救われたと思ったのです。それは、介護の現場で、人間の最期の姿を見たからです。

そこでは、以前すごく地位が高かった人とか、それなりの仕事に就いていた人でも、おむつをして、介護を受けるのです。

それで私は「なあんだ、人間なんてこんなもんだよ」って、肩の力が抜けたというか、ホッとしたのです。

それまでは、頭だけの人間だったわけです。大学なんて、それこそ頭だけで考えていたのが、実際にやってみると、考えていたものと全然違う。

それで、体を動かしてお年寄りとやり取りしていると、ものすごく生きてる実感がありました。

【尊敬していた医師でも治せない】

この頃、職場ではやはりうまくコミュニケーションが図れないスタッフもいて、生きづらくて、すごく悩みました。

無理して明るく振舞っていたので、何か不自然なのです。

それで、心療内科に行ったのですが、結果としては「こういう気持ちでは生きづらいですよ」と言われただけでした。

それでは何の答えにもなっていないし、治らないことを確認しに行ったようなもので、とにかく失望したのです。

その後、介護施設の仕事で体を壊した私は、東京に出てきて、医療事務として総合病院に勤めました。その病院にいた心療内科の先生は、私も尊敬していた先生でした。

その先生に、私はかなりの期待を持って受診したのですが、一言、「ああ、これは結婚してご主人にでも治してもらうんですな」と言われたのです。

「乱暴な言い方!」と思った私は、おそらく顔色が変わったのでしょう、先生も「あっ」ていう顔をしていました。

「旦那に治してもらえ」なんて、「自分じゃ治せない」ってことですよね。それに「結婚したら治る」なんて、すごく失礼だと思いました。

けっこう周囲からの信望も厚い先生だったのに「この先生でさえこれか」って思ったのです。しばらくして、風邪をこじらせた私は、自分の勤める病院に救急車で運ばれたことがありました。

その時、もしかしたら死ぬかもしれないと思い込んだ私の脳は、とてもクリアで、何のために自分が生まれてきたのかが分かったような気がしました。

「あ、私は人を愛するために生まれてきたんだった。人生はそのためにあるんだ」と思ったのです。

それから元気を取り戻した私は、「結婚もしようかなあ」と、宗旨替えしたのですが、すると即、後に夫となる人に出会ったのです。

性格的には合わず、頼りないし、五つも年下の人でしたが、私が気を遣わなくてもいい唯一の人でした。

とにかく、人といると気を遣っちゃうから嫌なのですが、その人には気を遣わないで済んだのです。それと、私が言ったことには何でも「いいよ」と言うんです。だから、全部私の自由にできました。

「ああ、私みたいにわがままな人間を、それでもいいって言ってくれる人は、この先現れないんじゃないかな」と思いましたし、年齢も30代の中頃でしたので、潮時かなと思って結婚したのです。

その後の私たちは、夫が海外に転勤になったので、40代の10年間をマレーシアとシンガポールで暮らしました。

海外生活は楽しかったのですが、夫の仕事は建築関係で単身赴任も長かったし、現場が遠いと何ヵ月も離れて暮らすことも多かったのです。

朝早くに出て夜も遅く、泊まりも多かったので、家にはほとんど私一人という感じでした。実は、夫と意思の疎通もあまり取れておらず、すごくむなしかったのです。

私は夫がいないときに、よく過呼吸になっていました。それに、なぜかひとりの時にしかならないんです。

海外で救急車を呼ぶのも大変だし、苦しい時には、呼ぶに呼べませんから、何回も怖い思いをしました。

「こういう結婚生活って、何なのだろう」と思っていたら、マレーシアからシンガポールに引っ越す直前に、夫に別の女の人がいたことが分かりました。

空しい結婚生活を送っていましたから、「あ、これで離婚できる」と一瞬思いましたが、裏切られたという思いや怒りが交って、感情が納得しませんでした。

【真っ黒い心を浄化したい】

それから1年間のシンガポール時代というのは、地獄のような日々でした。横に夫がいると、暴力を振るいたい気持ちや、殺意がブワーッと上がってくるんです。

その時は、マンションの28階に住んでいたのですが、窓から下を見てると、ここから落ちたらどんなに楽だろう、死にたいと思ったのですが、怒り、憎しみ、恨みが出てきて「死ぬのは私じゃない。あいつらだ!」というような気持ちにもなりました。

真っ黒い、ドロドロした感情でいっぱいでしたから、自分の心を浄化したくて、何時間もお風呂に入って、一日に何度もシャワーを浴びていました。

ふと鏡を見ると、般若の顔になっていた私がいました。般若のお面って、全部写実的で、誇張ではないんだと思いました。

人間って、そういう顔になる、般若も鬼も妖怪も幽霊も、全部自分のなかにいるのだと分かりました。

お酒が強くないのに飲んで、夜、シンガポールの街を何時間もさ迷い、夢遊病者のように徘徊していました。そういった生活のなか、唯一の慰めは朝日でした。

明け方に、空き地まで歩くのですが、そこから朝日が昇ってくるのを見ていました。まるで、お日様だけが私の味方といった気持ちだったのです。

太陽に手を合わせ、「ありがとうございます、ありがとうございます、ありがとうございます」と、呪文のように唱えていました。

そばには黄色い花に水滴がついていて、その輝きがものすごく神々しかったのです。100m先には大木があり、風に揺られて葉がざわついていました。

そういった自然たちが、私に向かって「大丈夫だよ、がんばれ、私たちがついているよ」と言ってくれているような気がしました。

その後、私たちは日本に帰国したのですが、夫と彼女の関係は続いていて、二人の間に子どもができていたことが分かりました。

彼女がいると知った時から、離婚するつもりではいましたが、私はずっと専業主婦でしたから、社会に出ていく自信がありませんでした。

勇気がないし、スキルもなく、この先どうやって生きていくんだと思ったのです。その時、50才だったのですが、怖くて怖くて一歩も足が出ないのです。

夫婦間のこともどうしていいか分からず、弁護士さんや役所に相談しに行きましたが、何も解決しませんでした。

それに、子どももいない私には、生きる上でのモチベーションも、何ひとつなかったのです。

心の問題も解決しようと、いろいろなセラピーや療法を受けたり、ヒーリングを習ったり、スピリチュアル系の本を読み漁ったりしました。

そういったもので、一時はだいぶ気持ちが軽くなるというか、救われたように感じるんですが、後で余計に前よりもドーンと落ち込むのです。

それでまた何かやって、少し浮上するのですが、またそれも続かず、さらにもっと深く落ち込みました。やればやるほど、もっとドーンと底に行くのです。

何をやっても全く駄目で、落ち込むばかりの私は、「この辺で死ねたら本当に楽だ、そのほうがどれだけ楽か」と、絶望するしかありませんでした。

当然、親のことも恨みました。「私をこの世に送り出しやがって」と、小さい頃から恨んでいたと思うのですが、それがすべての根本だと思いました。

そういった時、私は偶然、インターネットでYSメソッドを知りました。YSメソッドカウンセラーの音声と、動画を見つけたのです。

YSメソッドという治療法は、本当の自分である生命意識を体感することで、心の病を消すことができる。

そうカウンセラーは言っていました。この話を聞いた私は、「探しているものがあった!」と思い、感激しました。

いろんなことをやり、いろんな人に聞き、私がずっと若い時から探していた答えが、ここにあったと思ったのです。

それで、すぐにYSメソッドを受診することを決めたのです。精神的に本当に限界だったので、藁にもすがる思いでした。

万が一、これで駄目だったら、もうその時は死ぬ。死んでもいいよって、自分に許可を出してあげるつもりでした。

【夫の気持ちが分かった】

YSメソッドを受診した私は、とても不思議な体験をしました。

受診中は、自分の思いを紙に書くワークをたくさんやるのですが、左半身が頭からビリビリ、ジンジンと、すごくしびれてきたのです。

ワークを通じて、私のなかから生命意識が出てこようとしていたのでしょう。でも、私は本当に素直じゃなかったのです。

すごく抵抗してたというか、何度も手が止まってしまい、スタッフの方に「カウンセラーのところに行ってみましょう」と言われるのですが、「書けないから行けません」と言っていたのです。

それでも、ワークをしているだけで、とにかく涙がものすごく出てきました。

カウンセラーと会話していた時もずっと泣いてばかりいたのですが、そのうちに夫の気持ちがすごく分かったような気がしたのです。

すごく寂しかったろうなとか、認めてほしかったろうなとか。

私は、彼に良かれと思って、これからずっと仕事をしていく上で「これを直せばすごくいいのに」という部分を言っていました。

だけど、そんなことよりも、良さを認めてあげて、そして感謝すべきだったのです。夫は、会社でも大変な思いをしながら、休みなんてないような仕事をしていました。

しかも海外で苦労していたわけですから、外に7人の敵がいて、家に帰ったら8人目が待ってるっていうような生活じゃなく、もっといいところを伸ばしてあげられるような接し方をすればよかったのです。

私が与えられなかったものを、その彼女は与えてくれたのだという思いが湧きあがり、「彼のためには良かった、彼女の存在そのものが本当にありがたかった」という気持ちに、心底なれたのです。

恨んだり憎んだりっていうのは本当につらいです。

早くそういう思いを浄化させたくて、ずっといろんなことをしましたが、本当の自分である生命意識を自覚することで、引っかかっていたものがきれいに洗い流されました。

だから、もう夫に対して、何のわだかまりもなく、逆に素晴らしい人だという風に思えたのです。

それが何より嬉しかったです。この時、一番彼に対して、真の愛情を感じた瞬間だったと思います。

もう、おつりがくるくらいです。離婚の慰謝料を、こっちが払いたいくらいだと思いました。私も、諦め悪く本物を求め続けてくれた自分に感謝しました。

若い頃から苦しんだのは、生きる意味が知りたかったのです。何のために生まれてきたのか、自分は何のために生きるのか。それが知りたかったのです。

一つ言えるのは、人間は生きたいということです。それが本質で、経験をしたいのです。それはたぶん、心の成長のためだと思います。

親に、「生まれさせられた」とか、「こんな風に産みやがって」と思ってたのは、私の勘違いでした。

【自分と向き合えて、世界が変わった】

私は、自分のことが嫌でしょうがありませんでした。

だから、相手にも同じところを見て、それを直してほしいと言っていましたが、それは自分のことだったのです。

本当の人生を生きたいと思っているからこそつらかったし、そういう風にできない自分が許せず、歯がゆくて責めてきましたが、本当のところは自分も人も喜んで、満足させられて、笑顔にできるような、そういう人生を送りたかったから苦しかったのです。

そんな風に思える、いい子だったということに気がつきました。YSメソッドで、私はそういう自分と素直に向き合えたのです。

これはとてもありがたく、画期的で、世界が変わりました。それで、私は確信したのです。生命意識というものは、本当は人間の本質なのだと。

この先、きっと嫌なことも悩むこともいっぱいあるだろうけれど、本当の自分に立ち返ればいいんだということを知ってしまいました。

何があっても、きっとそこに立ち返れるだろうという気持ちがあるので、うつを完全に脱することができました。

もう、うつになれない自分を発見したのです。私は今、これまでの経験を活かして、病院で受付事務をしています。

先のことを考えると、完全に不安がないわけではありませんが、大もとの部分では何があっても大丈夫だと感じます。

仕事の上で私ができることといえば、できるだけ笑顔で接するとか、患者さんなど来られる方が、安らげるような対応をできるだけさせていただくことです。

それだけは、私の最低限の務めだと思うのです。できるだけ自然体で、自然にそういう風になれたらいいなぁと思っています。

振り返ってみれば、以前の私はうつ状態が日常というか、スタンダードになっていました。

生命意識と出会い、うつから脱することができましたが、そこで思ったのは、脱してからでないと、自分がうつだったかは分からないのです。

うつの本には、「2週間以上そういう状態が続いたら、うつ病の傾向がある」と書いてありますが、私は2週間どころか、何十年も続いていました。

そのなかで、たまに浮上して気分がよくなる程度だったのです。その後、自立する決心ができた私は、2年半もの間、音信不通だった夫に連絡をとりました。

「長く待たせてごめんね、離婚して自立する勇気を持てたから、会いませんか? 今まで本当にありがとう」と、メールしたのです。

すると、夫から電話がかかってきました。それから家に来てもらったのですが、私はごめんねと謝りました。

すると、これまでにないくらい、楽しく話ができたのです。その日、離婚することが決まりましたが、その日は私の誕生日でした。

実は結婚したのも誕生日だったのですが、まるまる18年の夫婦関係が、この日、終わりました。それから寿司屋に行った私たちは、二人で久しぶりに日本酒を飲みました。

懐かしくて、昔話に花が咲きました。ものすごく盛り上がったので、人から見れば仲のいい二人に見えたに違いありません。

それから私たちは、駅まで歩いてハグしました。

「素晴らしい20年間をありがとう。最後まで一緒にいられなくてごめんね。でも、これからは慶子の応援団長だから」と、夫は言ってくれました。

もちろん、私も夫の応援団長になりました。これからは、お互いがお互いの応援団です。駅のホームで、夫が乗るのは上りの電車、私が乗るのは下りの電車でした。

夫が電車に乗るのを見送った私は、この日から新しい人生を歩み始めました。

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すばらしい体験談ですね。芦谷さんは「本当の自分」に出会え、もううつになれない自分を発見されました。

そして、新しい人生の幕を開けたのです。皆さまの希望の光となりましたら幸いです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。